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zoom RSS オッカムの剃刀とキリスト教、ユダヤ教、イスラム教

<<   作成日時 : 2013/11/19 06:15   >>

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 「オッカムの剃刀(かみそり)」の視点でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教を見てみると、キリスト教には多くおアクセサリーが施されていて、その本質が見えにくくなっているのではないかと感じられる。


 イエスキリストは神の子といわれる。ユダヤ教の怒れる父の神に対してキリスト教の神は愛の神といわれ、イエスはユダヤ教から離れて人々に愛すろことの重要性を宣教した。ユダヤ教がユダヤ人のみを助ける神であったのに対し、イエスはその後のキリスト教の隆盛を受けて、結果的には全世界の民を愛でもって助けようとしたとされる。

 キリスト教の神には聖霊というもう一つの姿がある。これがまた難しい。Wikipediaによると、

 聖霊(せいれい、英: Holy Spirit)は、キリスト教の三位一体である神の三つの位格(ペルソナ)の内のひとつ。ギリシア語「プネウマ・ハギオン」の訳。三位一体とは、「父なる神」と「ロゴス (λόγος) である子なるイエス・キリスト」と「聖霊」の3つが、皆尊さが等しく、神は固有の三つの位格(自立存在: 希 υπόστασις (hypostasis), 羅 persona)でありながら、実体(希 ουσία (ousia), 羅 substantia)は同一であるという意味。

 聖霊は、目に見えないが神自身と同じ性格をもつ人格的な存在であって、ギリシャ語では、風や息とおなじπνευμα(プネウマ)という語で表現される。神と人とを繋ぐとりなし手であって、人間が内面から刷新されることによって「善良な行い」を聖霊のみちびきによって行うことができるようになるとキリスト教では考える。


となっている。この父と子と聖霊が神であり、一人(ひとつ?)の神が三つのペルソナを持って現れているとされる。


 ユダヤ教にはただ一人の神ヤハウェがいるだけの一神教であり、イスラム教もただ一人の神アッラーを信じている。キリスト教だけが、やけに哲学的というか、神のあり様を解析し、場合によって使い分けている。

 一神教と多神教は頭の中では理解できる。ただし、父と子と聖霊が現れて一神教と考えるのには少し無理があるのではとついつい考えてしまう。このあたり、キリスト教を専門とする神学者からみると、きっと私は無信心で勉強不足ということになるのだろう。

 いっぽう、絶対的ではないが、オッカムの剃刀(かみそり)という考え方がある。同じ事柄を説明する場合に、その説明が2通りあると、簡単な説明のほうが真理であるというものである。

Wikipediaより

 オッカムの剃刀(オッカムのかみそり; Occam's razor; Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」( Entities should not be multiplied beyond necessity )という指針。思考節約(思考経済)の法則・ケチの原理と呼称することもある。

     1.外から力がかからない物体は神が等速でまっすぐに動かす
     2.外から力がかからない物体は等速直線運動をする

 この2つでは、2.がシンプルで真理を表す。

 このオッカムの剃刀の考え方を用いると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のうち一神教に近いものは、ユダヤ教とイスラム教ということになる。キリスト教においても神は一人のみといっているが、説明は複雑であり、オッカムの剃刀流に言うと多くの実態を仮定しているということになりそうだ。

 ここに示した一神教の神(神々?)は元を質せばユダヤ教の神から派生したものである。多神教の国に住む私からすればユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神を崇めてるようにも見えるのだが、それぞれの宗教間でいさかいが絶えない。これらはこの順に生まれでた宗教であり、聖地も同じエルサレルである。また、キリスト教やイスラム教などは、同じ宗教であっても宗派間でいさかいが生じている。キリスト教などはカトリックとプロテスタントで争っていたこともある。これなどは、全く理解に苦しむところである。神を離れての権力闘争としてみると私にも容易に理解できるのではあるが。おそらく、宗教は権力に装飾された隠れ蓑となっているのであろう。

 世界に宗教があるがゆえの争いが絶えない。特に、一神教の世界においては、宗教間・宗派間の戦いが頻発する。一神教の神とは何かを改めて考えてみる必要がある。キリスト教において、人々に強く働きかけるのはイエスのペルソナである愛を持った現れであり、他の2つのペルソナと協力して私たちがどこにいても常に働き続けてくれているということだろう。

 少なくともキリスト教においては、神は愛である。ただ、これが自然に実践できるための条件は、宗教ではなく信仰のレベルに達しているということである。その点、日本の信仰には自信をもって世界に発信できる深いものがあるのではないかと感じている。日本人には無神論者という人が多いが、その行動様式の根底にはある種の「愛」が存在しているようにも見受けられる。

 宗教をオッカムの剃刀で切ってみた。キリスト教は難しい。一神教はわかりやすいが、他の宗教とは相容れ難い。その点、多神教は懐が深い。多くの神を同時に信仰することができる。どの神様が一番信じるに足り得るか。この議論を始めるとまた振り出しに戻ってしまいそうだ。各宗教の信奉者が自説を展開して大きな争いに発展する。思うに、神は人知を超えた存在であり、人間などがそうたやすく理解できるものではないからだ。ただ、宗教や信仰については、各人各様の考えがある。その考えの中に「オッカムの剃刀」を少し使ってみてはどうだろうという提案である。宗教の装飾部分が取り除かれると最後にその本質が残ってくる。その本質については、人間も多少なりとも判断をすることが許されるのではないかと考えられるからである。


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