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zoom RSS 京都南禅寺・平安神宮近く 琵琶湖疏水沿いの無鄰菴と有鄰館

<<   作成日時 : 2015/05/14 00:41   >>

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無鄰菴と有鄰館。対照的な名前だ。別荘と美術館。

無鄰菴はきれいな日本庭園を持つ。

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有鄰館は5月6日は休館中であった。



○印が無鄰菴、△印が有鄰館
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無鄰菴

隣家のない閑静な場所にあったことから名付けられたといわれる。

無鄰菴(Wikipedia)より

山縣有朋の別邸で七代目小川治兵衛の作庭。

「無鄰菴」と名付けられた山縣邸は三つある。最初の無鄰菴は山縣の郷里、長州・下関の草庵である。名前の由来はこの草菴に隣家がない事による。

第二の無鄰菴は、京都の木屋町二条に購入した別邸、そして第三の無鄰菴が京都・南禅寺参道前に造営した別邸で、「無鄰菴会議」の舞台ともなった場所である。本項では主にこの第三の無鄰菴について説明する。

琵琶湖疏水と東山の別荘地
山縣が別邸無鄰菴をこの地に築いた背景には、東山山麓の南禅寺下河原一帯を別荘地として位置づけて発展させようとしていた当時の政財界の動きがあった。

この一帯にあって広大な境内に塔頭が立ち並んでいた南禅寺は明治初期の廃仏毀釈で、他の寺院と同じく寺領の上知を命ぜられ、境内の縮小や塔頭の統廃合を余儀なくされた。このとき上知された寺の土地はやがて民間に払い下げられた。琵琶湖からこの地に至る琵琶湖疏水が計画され、第一期工事が明治23年に竣工する。京都市や京都府は、この東山地区を風致地区として、将来の別荘地とする方針を取っていた。無鄰菴は、その別荘・別邸群の先駆けともいえる存在となったのである。無鄰菴に続くようにできた付近の別荘の作庭も、七代目植治がその多くを引き受けることとなった。

近代的日本庭園
広い庭園は山縣が七代目植治(小川治兵衛)に作らせたもので、山縣三名園に数えられる。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み浅い流れを配した池泉廻遊式庭園で、近代的日本庭園の嚆矢とも言えるものであった。その広さは約3,135平方メートル[7]。

無鄰菴の建物
無鄰菴の建物は、木造平屋建(1部2階建)の母屋、薮内流燕庵を模した茶室、煉瓦造2階建の洋館から成る。

疏水の引き入れ
無鄰菴に疏水を引き込む際、「防火用水」の名目が使われている。琵琶湖疏水の建設には多額の税金が掛けられているため、京都市としては「庭園のため」では許可出来なかったためである。

無鄰庵会議
洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎である。



有鄰館の沿革と概要

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京都・東山連峰にほど近く清らかな疎水に面し、乾隆年製の黄釉瓦36,000をのせ、中国古材の朱塗りの八角堂をいただく有鄰館は、大正15年(1926年)に、滋賀県五個荘出身の藤井善助翁によって設立されました。翁は近江商人の血をひき17歳で上海の後の東亞同文書院大学に学び、33歳では数十社の経営に当り、満34歳で衆議院議員となり、この時出会った犬養毅翁の薫陶が中国文化への認識を深めさせ、古印などの収集をはじめることとなりました。有鄰館という名前は、「徳は孤ならず必ず鄰有り」と中国との善隣と友好を願って「論語」より名付けられました。


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