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zoom RSS 「物事を複雑にしてしまうのはそれが何も理解できていないからだ」と、カルロス・ゴーンは言った

<<   作成日時 : 2017/01/04 21:54   >>

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掲題の言葉は、カルロス・ゴーンがフランスにあるイエズス会系の中学校で学んでいる時に、教師である神父が言っていた言葉である。今日(2017年1月4日)の日本経済新聞「私の履歴書」に記載されている。

多感な時期に教師からかけられた言葉を今でも覚えているということは、この言葉がゴーンの心を捉え、それ以降この言葉の意味するところを考え続け、そのように行動し、そしてその結果としてゴーンの今日があるのであろう。ゴーンに物事の本質を見る目を植え付けた、神父の教育者としての技量も大したものである。


さて、この流れの中で「物事を複雑にする」と聞くと、どうしても中世ヨーロッパをイメージする。天動説である。アリストテレス以来千年以上にわたって変化することなく信じ込まれた、あるいは、教会が権威を守るために民衆に信じることを強要した、あるいは洗脳した、その天動説である。

天動説を正当化するために、教会は様々な仕掛け作りをしたことと思うが、それはあまりにも複雑で、論理的には説明できなかった。信じないものは宗教裁判にかけることで教会の権威が保たれた。無知と盲信の時代である。

時代が進んで、今日でもそうであるが、キリスト教では一神教と言いながらも、三位一体の神の存在を信じている。これなどは、「複雑怪奇で理解できない」というのが正直なところである。タイトル流に解釈するとすると、「神について何も理解していない」ということになる。宗教者(神父)に言わせると、おそらく私の考え方が間違っており、神の存在や有り様を一介の人間がわかるはずなどありえない、神はそれほどに神秘に満ちた存在ということになる。

ここで論理を働かせると、「神なる存在は、我々人間にはその存在がわからないからこそ存在している」という不思議な結論となる。神を知ろうとすればするほど神は離れていってしまう、という不思議な現象が起こる。ヨーロッパの人たち・キリスト教徒たちはこれをどのように理解しているのだろうか。あるいは、理解しようなどとしてはならないのだろうか。信仰であるのだから理解とは次元が違ったものであると、割り切るのであろうか。

キリスト教の三位一体の神と比べると、ユダヤ教の神やイスラム教の神は単神であるので、まだ少しは理解しやすい。この3つの、流れを同じくする神を「オッカムの剃刀」で切ってみたのが次のブログである。


オッカムの剃刀とキリスト教、ユダヤ教、イスラム教 (2013年11月19日)

引用開始

 「オッカムの剃刀(かみそり)」の視点でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教を見てみると、キリスト教には多くおアクセサリーが施されていて、その本質が見えにくくなっているのではないかと感じられる。

 キリスト教では父と子と聖霊が神であり、一人(ひとつ?)の神が三つのペルソナを持って現れているとされる。

 ユダヤ教にはただ一人の神ヤハウェがいるだけの一神教であり、イスラム教もただ一人の神アッラーを信じている。キリスト教だけが、やけに哲学的というか、神のあり様を解析し、場合によって使い分けている。

 一神教と多神教は頭の中では理解できる。ただし、父と子と聖霊が現れて一神教と考えるのには少し無理があるのではとついつい考えてしまう。このあたり、キリスト教を専門とする神学者からみると、きっと私は無信心で勉強不足ということになるのだろう。

 いっぽう、絶対的ではないが、オッカムの剃刀(かみそり)という考え方がある。同じ事柄を説明する場合に、その説明が2通りあると、簡単な説明のほうが真理であるというものである。

 このオッカムの剃刀の考え方を用いると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のうち一神教に近いものは、ユダヤ教とイスラム教ということになる。キリスト教においても神は一人のみといっているが、説明は複雑であり、オッカムの剃刀流に言うと多くを仮定(仮想)しているということになりそうだ。

                                                           引用終了


ヨーロッパにおける中世キリスト教の隆盛が、科学技術の進歩を大きく停滞させた。キリスト教の影響力が小さくなって、科学技術が大いに進み、今日に至っている。

「中世ヨーロッパ社会」で起こったことの反省点としては、意味もなく不可思議な社会が、教会という権力により作り上げられていたということであろう。その教会の権力は今日では弱くなった。とはいえ、社会規範という名のもとに、守らねばならぬ常識という別の枠組みが私たちの生活を見えぬ網で取り囲んでいる。中世ヨーロッパにおいても、今日の私たちが社会規範として捉えている程度に、キリスト教の権威を当たり前のように捉えていたのかもしれない。

そう考えると、ゴーンの言葉が私には突き刺さる。ゴーンの言葉の裏には、「物事が単純に見えるのは、なにも理解しようとしていないからだ」が見え隠れする。私たちは、常に常識を疑い、人間として生きていく道を求めねばならない。そこに進歩と幸せがあると信じて。




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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
複雑な事は簡単に、簡単なことは複雑に、(考える)
という諺?を思い出させます。

コミュニケーション能力には、
「複雑な事柄を簡潔かつ要領よく伝えることが出来るか?」
という評価帰順もあります。
匿名
2017/01/05 12:23

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