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zoom RSS わが故郷、兵庫県加古川市国包に関する講演会がその故郷の地であった 自己に至る歴史を知る旅路

<<   作成日時 : 2017/02/13 20:16   >>

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私の生まれ故郷、兵庫県加古川市国包(くにかね)は、昔から地域での行事が盛んであったところだ。

国包けやきの会の会長である藤原忠悟さんより案内を受けたので、その講演会とバイオリン演奏会に参加した。

講師は加古川市の教育委員会を経て現在は加古川市立松風ギャラリーの館長である岩坂純一郎氏である。
そして、下に示したのはその講演会を聴講して、私なりにまとめた講義ノートである。自分で注釈もつけている。

学んだこと

歴史の巷で言われている常識は正しいとは限らない。
 三木城攻めの加古川評定は加古川城で行われたとは限らない
 ヤマトタケルは加古川で生まれたとあるがその証拠はない

1石(こく)の定義 1人が1年に食べる米の量
国包の石高は非常に小さく、商工業で村を支えていたとしか思えない

国包は加古川を挟んで印南郡の飛び地
加古川左岸に位置する国包は、その左岸の加古郡の一部であるように見えるが実は印南郡の一部である

こんなことになっている原因は1225年(古い話)の加古川大洪水にある。川の流れが変わったため
その影響が現在も残る

等、多くの示唆を頂けた講演でした。


このブログの内容は、他の人から見ると、私個人の覚書になっているかもしれません。その際は、ご容赦ください。



国包けやきの会 2017年新春セミナー 第一弾



(第1部)

講演会 加古川と国包の歴史に学ぶ


講師 岩坂純一郎氏 加古川市立松風ギャラリー館長

岩坂氏の国包とのかかわり

 先祖が常観禅寺の第10代住職

歴史を振り返る意味は? 今後を学ぶこと

歴史で言われていることを鵜呑みにしてはいけない
まことしやかに言われていることが、実際はそうではない場合がある

 志方出身の黒田官兵衛の妻は光(てる)と言われるが、
 実際は光(みつ)と呼ばれていたようだ。
 光(てる)は作家が本の中でそう書いたから、とのこと。

 三木別所攻めの時の加古川評定は加古川城(寺家町の南、現在の称名寺位置にあった)
 で行われた。
 実際は野村城(厄神さん付近にあった)で行われたのではないか?
 加古川城の近くに3つも廓(くるわ)があったわけがない。
 湯山街道の賑わいからしても、その評定の行われた場所は野村城ではないか?

 ヤマトタケルの加古川出身説は? 播磨風土記(713〜715年)にも記載なし
 タケルが天皇の父であることは確かなようだが加古川で生まれたとの証拠はない。

災害に強い加古川

 関東大震災のあとで陸軍が首都の移転地候補として加古川と八王子を挙げた
 だが、加古川の流域は、加古川(河川)の氾濫により大きな被害を受けてきた。
 国包は河川改修工事が完了する昭和8年まではその例外ではなかった。
 特に、1225年の全村流失、そして村が川の反対側に移ったことにより
 その歴史は大きく変わった(※筆者記 印南郡側より加古郡側に移動した)

※さらに筆者注釈
 国包は1225年の川の氾濫により、印南郡に属しながら違う行政区である加古郡側に
 位置することになった。
 行政区は上荘地区、生活域は八幡地区と蝙蝠生活となっている原因がここにある。

加古郡(Wikipedia) 国包は加古郡には属さない

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町のほか、下記の区域にあたる。基本的に加古川の河口左岸が加古郡、右岸が印南郡である。

加古川市の一部(加古川町本町・加古川町木村・加古川町西河原・加古川町友沢・加古川町稲屋・上荘町国包を除く加古川以南)

印南郡(Wikipedia) 国包は印南郡に属する

1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。基本的に加古川の河口左岸が加古郡、右岸が印南郡である。

加古川市の一部(加古川以北および加古川町本町・加古川町木村・加古川町西河原・加古川町友沢・加古川町稲屋・上荘町国包)


国包の人口推移

 国包村明細帳(1737年) 717名、 明治15年 950人、 明治24年 1018人、
 平成15年 1215人、 今現在 1002人
 明治時代初期の村の数は現在の加古川市域内には、
 加古郡で50、印南郡で60数か村の約110村があった。
 明治15年には加古川で5番目に大きな町、当時の加古川の人口は5万人
 明治24年には7番目に大きな集落

亀の井による畑の水田化と新田開発

 江戸時代の全人口は3000万人、石高は3000万石(こく)。1石は1人が年間に食べる米の量150kg
 江戸時代には米の石高分しか人口を養えなかった。
 国包村の亀の井堰開削前は石高は310石。
 (※筆者記 ここから年貢を納めると、150人くらいしか養えない計算となるのだが。
   200年前の亀の井堰開削で石高は536石となったが、これでも養える人口は
   250人程度である。国包という村が商工業に大きく頼っていた様子がここから伺える)
   国包村明細帳(1737年)にもいろいろな職業が記されている。

 国包は取れた米の49%を年貢(税)として上納していた。この上納率は地域によって異なった。

 平成27年の米消費量は55kg/年と様変わりである。
 現在は1反(たん)で500kg(3石強)の米がとれる。(江戸時代は平均2石/反)としていた。
 日本全体で80億kgの米が作れるので、1.45億人を養える計算となる。
 米が過剰。農業に対する考え方を変えていく必要がある。

国包の昭和初期

 銀行や医者、商店などがあり、一つの町としての全機能を有し、住環境が整っていた。

お墓について

 埋め墓と詣り墓がある。土葬の時代には普通に見られ、市内に広範に分布していた。
 (国包もこの両墓制)
 墓守がいなくなってくるので、墓の形態は大きく変わってくる(日光山墓地の共同埋葬等)

伊勢講、大師講

 オトー。もともとは神社に神主はいなかった。
 神社は寺が管理、あるいは地域で交代で管理していた。
 農地解放で「講」で農地が持てなくなり、経済的に維持できなくなり、その有り様も変化した。
 もともとは、講は近所付き合い的な組織である。

地域の今後

 外から見ると、国包はまとまりがよい。域外に出た人が国包に地域貢献しようとしてきた歴史がある。
 これからは、地域の財産をどう生かしていくかが重要。





(第2部)

粉河夫妻によるバイオリンコンサート

 本日は天候もよく、春の日差しの中、眠りを誘われるように気持ちよくバイオリンの音を聴いた。

(曲目)

 冬景色、 早春賦、 春の歌(メンデルスゾーン)、 レジェンド(モーツアルト)、

 美女と野獣(ディズニー)、 チャルダッシュ(ジプシー音楽)、 星に願いを(ディズニー)

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