目の前のなんの変哲もない、しかし愛着ある湯飲み茶碗 

 この湯のみ茶碗と付き合ってもう30年以上の月日が流れた。考えてみるに、子供と過ごした時間よりも長い時間をこの湯のみ茶碗と過ごしたことになる。信楽で立ち寄った焼き物店の一番奥まった棚の上に置いてあったのを見た拍子に是非とも欲しいと思って買い求めたものだ。いまでもその情景をよく覚えている。陶器などというものを滅多に自分で買うことはない私にとって、この湯呑は数少ない買い物のひとつである。とは言っても、その価格はというと、言うのもはばかれるほどの安物である。

 愛着というものはそういうものである。「蓼食う虫は好き好き」という諺どうりである。好きか嫌いか、良いと感じるか悪いと感じるか。これは個人の感性の問題であり、他人がどうこういう問題ではない。その人が好きと思えば好きなのであり、良いと思えば良いのである。古のルソンの壺のように、作られた価値などではない人の心に訴え掛ける何かがそこにはある。そんな何かを大切にしたい。

 この湯のみ茶碗は、阪神大震災にも遭遇した。食器棚からほとんどすべての食器が飛び出し、少しは値が張る食器の多くは壊れたが、100円ショップで買った食器とこの湯呑は不思議と生き残った。高貴でないものは生命力が豊かである。それだけに可愛くもある。

 この湯呑に人生を重ねるとき、高級な生活とは縁がなかったが、自分に素直に生きてこられたと感じられる。だから、この変哲もない湯呑に私は愛着を感じているのだろう。あと20年、できればあと30年、この湯呑とともに肩肘を張らずに付き合っていけることを希望している。


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