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zoom RSS 映画「利休にたずねよ」が大苦戦している本当の理由は?

<<   作成日時 : 2013/12/22 00:09   >>

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 兵庫県加古川市の映画館で「利休にたずねよ」が封切られたのが12月7日(土)、そして私がこの映画を観たのがその翌日の12月8日(日)の夕方である。この時間帯には映画館は多くの人で賑わっていた。それにもかかわらず、「利休にたずねよ」は定員約200人に対して3分の1にも満たない観客数で、そのほとんどは60歳以上の高齢者と見受けられた。この映画が大苦戦しているとされても仕方のない現実がそこにはあった。

 私のこの映画に対する感想は、「よくできている」である。勿論、種々脚色があり歴史には沿っていない部分があるかもしれないが、歴史の事実自体が権力者のいより作られたものなので、どこまでの脚色をすれば歴史的事実から逸脱するかはケースバイケースである。豊臣秀吉が足軽から権力を握って天下人となり、朝鮮出兵するこの時期としては、映画で表現されている内容は脚色の範囲内であると見た。

 その激動の時代背景の中で、利休は権力者と交わりつつも、精神世界を生きていくことに人生のすべてを集中した。その生の根源は「美しきものを求める心」である。若き日に、権力者に貢物として差し出される高麗の若き女性にならぬ恋心を抱き、結局はその女性を自らの手で死に至らしめなければならなかった利休が、その女性が死の間際まで一輪の花を愛したことに心を打たれたことが、利休のその後の生き方を決定づけた。映画の中では、利休はその女性と一緒にし死のうと約束したが、自身は死にきれずに一人残った。一度死んだ身・精神は強い。

 「美しきもの」を愛し、茶の美を追い求めた利休ではあるが、時の権力者、特に豊臣秀吉より、進退を問う相談を受けた時には適切な助言を与え、それが秀吉を天下人にまで押し上げる原動力となったとの映画のストーリーである。「利休にたずねよ」である。しかし、権力者は自分よりも実力のあるもの、そして特に離宮が秀吉よりも人気があることに嫉妬し、それが秀吉より利休が切腹を言いつけられる原因となった。現実世界と精神世界が見事に仕分けられている。秀吉は生き、利休は死んだが、実際にはどちらが生きどちらが死んだかを考えさせられる。

 時代背景を踏まえ、茶道の進化を盛り込み、そして人の心の動きをリアルに感じさせるこの映画が大苦境にさらされるとは、誠に悲しい限りである。だが、見方を変えてみると、戦国時代の歴史に疎く、茶道発展の歴史に対しての理解が浅く、人の心の微妙な動きを自分のものとして捉えることができなければ、この映画は面白く見ることはできない。ここでいう面白いはinteresting(知的な興奮とでも訳せば良いか)であるが、現代社会でおもしろいといえばfunny(表層の面白さ)であることが多い。このおもしろさに対する捉え方の時代ギャップが、「利休にたずねよ」の大苦戦につながっていると考えると、なるほどと理解できるところである。

 そして、映画の最後で切腹により果てた利休の亡骸に白い衣を被せながら妻が言った。「私があなたに最後にお尋ねしたかったのは・・・・・・・」 



cuzo woman 12月19日

海老蔵主演『利休にたずねよ』大コケ、業界評は「『モントリオール』を金で買った?」

 市川海老蔵主演映画『利休にたずねよ』が、予想外の苦戦を強いられている。興行収入ランキングでは初週5位、2週目は8位にまで転落。海老蔵は初週のランキングについて、ブログで「コナンにルパンって反則だよぉ〜」と同日公開の『ルパン三世vs名探偵コナン THE MOVIE』を引き合いに出していたが、2週目には初登場の『ゼロ・グラビティ』や『カノジョは嘘を愛しすぎてる』、『武士の献立』に動員数で敗北を喫し、関係者らの期待を大きく下回る結果となってしまっている。

 同作は『モントリオール世界映画祭』で、最優秀芸術貢献賞を受賞。また海老蔵にとっては父親である市川團十郎との最後の共演作となったことも話題に。しかし長期に渡る宣伝も功を奏さず、また劇中での反日的表現に批判が殺到する事態になった。

 ネットを中心に炎上を起こしているのが、異様な“韓国押し”だという。

 「茶道の起源を朝鮮としたり、日本人が朝鮮人を拉致するなどのシーンについて、ネット上では『韓流ドラマだったか』『史実なわけがない』と非難が殺到。たとえストーリーが原作付きだったとしても、現在の日韓関係を理解していれば、批判が起こる内容は絶対に避けられたはず」(同)



茶道の歴史(Wikipedia)

 初めて中国から体系的に茶の知識を持ち込んだ書物は唐の陸羽(733年 - 804年)の書いた『茶経』と言われている。この本には、茶の木の育て方、収穫方法と道具、たてかた、飲み方、歴史などが詳しく書かれている。

 茶を飲む習慣と茶の製法は平安時代に遣唐使によってもたらされた。当時中国茶は現代の烏龍茶に似ただんご状の半発酵茶と考えられている。この茶の色こそが現代日本人のいうところの茶色である。 当時の日本人は、茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえており、必要量のみを煎じて飲んだと考えられている。しかし、当時は根付かず喫茶は廃れてしまった。

 鎌倉時代に、日本に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として持ち込まれた抹茶が、禅宗の広まりと共に精神修養的な要素を強めて広がっていった。さらに茶の栽培が普及すると茶を飲む習慣が一般に普及していった。

 室町時代においては、飲んだ水の産地を当てる闘水という遊戯から、闘茶という、飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が流行した。また、本場中国の茶器「唐物」がもてはやされ、大金を使って蒐集し、これを使用して盛大な茶会を催すことが大名の間で流行した(これを「唐物数寄」と呼ぶ)。これに対し、村田珠光が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説いた。これがわび茶の源流となっていく。

 わび茶はその後、堺の町衆である武野紹鴎、その弟子の千利休によって安土桃山時代に完成されるに至った。利休のわび茶は武士階層にも広まり、蒲生氏郷、細川三斎、牧村兵部、瀬田掃部、古田織部、芝山監物、高山右近ら利休七哲と呼ばれる弟子たちを生んでいく。さらにはわび茶から発展し、小堀遠州、片桐石州、織田有楽ら流派をなす大名も現われた。現代では特に武家茶道、或いは大名茶などと呼んで区別する場合もある。




追加情報

山本兼一(Wikipedia)

誕生
1956年7月23日
京都市

死没
2014年2月13日(満57歳没)

京都市

職業
小説家

教育
学士

最終学歴
同志社大学文学部

活動期間
2002年 - 2014年

ジャンル
時代小説、歴史小説

代表作
『火天の城』
『利休にたずねよ』

主な受賞歴
松本清張賞(2004年)
直木賞(2009年)
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山本 兼一(やまもと けんいち、1956年7月23日 - 2014年2月13日)は、京都市生まれの小説家。京都市立紫野高等学校、同志社大学文学部文化学科美学及び芸術学専攻卒業。出版社、編集プロダクション勤務、フリーライターを経て作家デビュー。

2012年10月に肺腺癌で一度入院。2013年12月中旬に病状が悪化して再入院し、病床で執筆を続けていた。2014年2月13日午前3時42分に原発性左上葉肺腺癌のため京都市の病院で死去。57歳没。

雑誌『中央公論』に2013年11月号から連載していた「平安楽土」が絶筆となった。最後となった同作の第6回を編集者に送ったのは死去前日、亡くなる約5時間半前であった。





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