イエス・キリストの「山上の垂訓」考 守るに難しい規則
本日はクリスマス。イエスの誕生日である。イエスは人類を救うために、神が地上に遣わされた神の御子(おんこ)であるとされる。キリスト教には父なる神、子なる神イエス、そして精霊がありこの三者が合わさって三位一体、これでひとつの神となる。一神教であるからひとつとならなければならない。この考え方には結構無理があり、頭に混乱をきたすほど複雑である。神には3つのペルソナがあるとして一応は納得されているようであるが? ともかく、この御子イエスが愛をもって人類を救済するために地上に現れた日(誕生日)が今日である。
ユダヤ教とイスラム教の神もキリスト教の神と同じ神であるはずである。聖地をエルサレムと同じくし、こちらも一神教である。同じ神でありながら違う宗教として分類され、この3宗教間の争いは絶えない。愛などはどこ吹く風である。これが他の神様の存在を認めないという一神教の宿命であろう。宗教とは一面では人を狂わせる宿命を負っている。
イエスは人を救うために地上に生まれた。イエスの言葉で有名なのは次の山上の垂訓だ。確かにいいことを言っているのだが、イエスの時代の人の本性が正反対であったために、イエスはこのような説教をする必要があったのかもしれない。このなかで、わかりにくいのは心の貧しい人の箇所である。かつて英語の聖書で"Happiness are they who knows their spiritual poverty."と読んだ記憶がある。これならば理解できるのであるが、その出処がいまは見つからず、探索中である。多くの聖書に出てくる"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven." 心が貧しいままが良いことになるので、やはりこれではわからない。ついつい粗野な状態、原始の状態の人間を神様が好むのかと思ってしまう。そういえば、知恵に木の実をたべて、アダムとイブは楽園を追い出された。やはり、神にとっては従順な人間が好みであるのだろう。
そのアダムとイブが人間に「原罪」をもたらした。西欧人は生まれた時からこの原罪を心の片隅に意識させられ、少しでも良い人間になろうと努力している? 実際は地獄に行くのが怖いのかもしれないが。イエスの黄金律に従うと「あなたがして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」となるわけである。そして現実はというと真逆のことが起こる。それが下のリーマンショック時の7つの大罪である。罪を犯せば教会で告解(許しの秘蹟)しさえすれえばすべての罪が許されると西欧人は考える。それが秘蹟というものだ。でもそれではあまりにも安直である。日本では「衣食足って礼節を知る」というが、こちらのほうがよほど人間らしさを表しているように感じられる。わたしは倫理という言葉はよくわからないが、道徳という言葉は理解できる。
クリスマスを良い機会に、今一度、心の豊かさとは何か、愛とは何かをゆっくりと一日かけて考えてみる。一年を思い返し、良いこと・悪いことを振り返る、そんな機会がクリスマスではないかと思う。そして、清められた心に A Happy New Year が訪れると理想的である。来る年も良い年でありますようにとの祈りを込めて。
山上の垂訓(Wikipeia)
新約聖書内マタイによる福音書第五章から七章にある、イエス・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教えのこと。山上の説教とも。
マタイによる福音書 5-3~10
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
リーマンショック後のリーマン、メリルリンチの会社更生法申請に対して、米政府はリーマンに対してあまりにも強欲であると、救いの手を差し伸べなかった。
リーマン・ブラザーズのファルドCEOは更生法申請後に手持ちの株式を売り抜けた。これに対し、幹部社員は「会社を潰しておいてみっともないと思わないのか」、「強欲」と罵った。
CEO在任中に510億円もの報酬を稼いだ。CEOを罵った幹部社員も、常識的にみると強欲であったかもしれない。
キリスト教でいえば「罪なきものがその女に石を投げよ」とキリストが言われた。そして誰も石を投げるものがなく、その場を去って行った。
リーマン・ブラザーズで働く幹部社員や社員連も「強欲」のとりこであったことは疑いないであろう。しかもCEOに「あなたは強欲」との石つぶてを投げた。投げてしまった。
キリスト教には「7つの大罪」がある。リーマンの社員は強欲に加え、いくつの罪が当てはまるのだろうか。CEOに対する嫉妬、これはある。
傲慢(superbia)
嫉妬(invidia)
憤怒(ira)
怠惰(acedia)
強欲(avaritia)
暴食(gula)
色欲(luxuria)
それに対して、日本の思想は高邁である。江戸末期の二宮尊徳先生の言葉。
遠くをはかる者は富み
近くをはかる者は貧す
それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。
まして春まきて秋実る物においてをや。
故に富有なり。
近くをはかる者は
春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず
唯眼前の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ眼につく。
故に貧窮す。
なんと格調高い教えであろうか。心で理解できても実行できる人は少ないが。
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ユダヤ教とイスラム教の神もキリスト教の神と同じ神であるはずである。聖地をエルサレムと同じくし、こちらも一神教である。同じ神でありながら違う宗教として分類され、この3宗教間の争いは絶えない。愛などはどこ吹く風である。これが他の神様の存在を認めないという一神教の宿命であろう。宗教とは一面では人を狂わせる宿命を負っている。
イエスは人を救うために地上に生まれた。イエスの言葉で有名なのは次の山上の垂訓だ。確かにいいことを言っているのだが、イエスの時代の人の本性が正反対であったために、イエスはこのような説教をする必要があったのかもしれない。このなかで、わかりにくいのは心の貧しい人の箇所である。かつて英語の聖書で"Happiness are they who knows their spiritual poverty."と読んだ記憶がある。これならば理解できるのであるが、その出処がいまは見つからず、探索中である。多くの聖書に出てくる"Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven." 心が貧しいままが良いことになるので、やはりこれではわからない。ついつい粗野な状態、原始の状態の人間を神様が好むのかと思ってしまう。そういえば、知恵に木の実をたべて、アダムとイブは楽園を追い出された。やはり、神にとっては従順な人間が好みであるのだろう。
そのアダムとイブが人間に「原罪」をもたらした。西欧人は生まれた時からこの原罪を心の片隅に意識させられ、少しでも良い人間になろうと努力している? 実際は地獄に行くのが怖いのかもしれないが。イエスの黄金律に従うと「あなたがして欲しいと思うことを人にしてあげなさい」となるわけである。そして現実はというと真逆のことが起こる。それが下のリーマンショック時の7つの大罪である。罪を犯せば教会で告解(許しの秘蹟)しさえすれえばすべての罪が許されると西欧人は考える。それが秘蹟というものだ。でもそれではあまりにも安直である。日本では「衣食足って礼節を知る」というが、こちらのほうがよほど人間らしさを表しているように感じられる。わたしは倫理という言葉はよくわからないが、道徳という言葉は理解できる。
クリスマスを良い機会に、今一度、心の豊かさとは何か、愛とは何かをゆっくりと一日かけて考えてみる。一年を思い返し、良いこと・悪いことを振り返る、そんな機会がクリスマスではないかと思う。そして、清められた心に A Happy New Year が訪れると理想的である。来る年も良い年でありますようにとの祈りを込めて。
山上の垂訓(Wikipeia)
新約聖書内マタイによる福音書第五章から七章にある、イエス・キリストが山上で弟子たちと群集に語った教えのこと。山上の説教とも。
マタイによる福音書 5-3~10
心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
リーマンショック後のリーマン、メリルリンチの会社更生法申請に対して、米政府はリーマンに対してあまりにも強欲であると、救いの手を差し伸べなかった。
リーマン・ブラザーズのファルドCEOは更生法申請後に手持ちの株式を売り抜けた。これに対し、幹部社員は「会社を潰しておいてみっともないと思わないのか」、「強欲」と罵った。
CEO在任中に510億円もの報酬を稼いだ。CEOを罵った幹部社員も、常識的にみると強欲であったかもしれない。
キリスト教でいえば「罪なきものがその女に石を投げよ」とキリストが言われた。そして誰も石を投げるものがなく、その場を去って行った。
リーマン・ブラザーズで働く幹部社員や社員連も「強欲」のとりこであったことは疑いないであろう。しかもCEOに「あなたは強欲」との石つぶてを投げた。投げてしまった。
キリスト教には「7つの大罪」がある。リーマンの社員は強欲に加え、いくつの罪が当てはまるのだろうか。CEOに対する嫉妬、これはある。
傲慢(superbia)
嫉妬(invidia)
憤怒(ira)
怠惰(acedia)
強欲(avaritia)
暴食(gula)
色欲(luxuria)
それに対して、日本の思想は高邁である。江戸末期の二宮尊徳先生の言葉。
遠くをはかる者は富み
近くをはかる者は貧す
それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。
まして春まきて秋実る物においてをや。
故に富有なり。
近くをはかる者は
春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず
唯眼前の利に迷うてまかずして取り
植えずして刈り取る事のみ眼につく。
故に貧窮す。
なんと格調高い教えであろうか。心で理解できても実行できる人は少ないが。
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