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zoom RSS 「あたりまえ」ということ、それは「あたりまえ」か?

<<   作成日時 : 2013/12/30 05:36   >>

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 日常生活で、私たちはよく「あたりまえ」という言葉を使う。だが、考えてみると、「あたりまえ」ほど曖昧な言葉はない。

 長年生活してきた中で培った常識から発せられる言葉が「あたりまえ」である。この「あたりまえ」は、その個人の暮らす集団にとっては「あたりまえ」であることが多い。この「あたりまえ」を踏み外すと、その個人はその集団から非常識であるとの謗り(そしり)を受ける。だが、この「あたりまえ」は別の集団においては「あたりまえ」でないことが多い。これが文化の違いというものだろう。育ってきた集団により「あたりまえ」が違うから、異文化の衝突や異文化の交流が生まれ、そこに新たな発見や創造、そして新たな文化が花開くことになる。

 私たちが何を持って「あたりまえ」と言っているか。「あたりまえ」という言葉を自ら発した時に、その当たり前の根拠を探ってみると面白い。99%間違いないことを「あたりまえ」と言っているのか、それとも90%確かであれば「あたりまえ」と言っているのか。その確度は人により大きく違うはずである。

 何かある新しい発見が有り、それが公表されると、おそらく多くの人は最初はその事実に懐疑的である。まだ「あたりまえ」というには程遠い。だが、1割の人がそれを確からしいと考えるようになると、5割の人はその意見をにつられてそれは確かであると思い込み、その確からしさがその社会で「あたりまえ」として定着する。こうなると、残りの4割の人はこの「あたりまえ」という状況のなかで生きることになり、それに異を唱えるには大きな勇気が必要になる。

 私たちの周辺には多くの「あたりまえ」がある。「あたりまえ」と思っていることの根拠を深く追求していくと、なぜこれが「あたりまえ」なのだと疑問を呈する「あたりまえ」も多くある。そのような「あたりまえ」はいずれはその「あたりまえ」とされたことがいずれは「あたりまえ」でなくなる可能性がある。古い「あたりまえ」を信仰している人は、やがて、新しい「あたりまえ」に宗旨替えした人よりあなたの「あたりまえ」は古いと言われる。多くの人は「あたりまえ」を多数決で決めるので、体制側、多数決で多い側、に付いた方が大方において勝利を収めることになる。

 この典型的な例が、会社などでよくある前例主義である。「あたりまえ」とされたことを踏襲すれば間違いない。なぜならば皆がそれを「あたりまえ」と信じているから。たとえそれで間違いが起こったとしても、「あたりまえ」とされたことを「あたりまえ」に行ったのであるから、その「あたりまえ」のことを行った人は無実である。この「あたりまえ」に抗して新たな試みをした人は往々にしてその社会や小集団から批判を受けたり無視されたりする場合が多い。会社のために努力ししているとのポーズをとり、実際には何もしなかった人が会社では出世していく理由がここにはある。

 しかし、人間の歴史はこの「あたりまえ」に抗して新たなことをなし、そして新たな「あたりまえ」を作り上げてきた歴史でもある。昨日のことを今日も続ける。これはこころの平安は得られるかのしれないが、安全ではない。歴史は日々進歩するものであり、そこにはあらたな「あたりまえ」が日々生じている。国によって、また小集団によって「あたりまえ」が異なる以上、その衝突と交流によってあらたな「あたりまえ」が生じるのは必然であると認識する必要がある。この認識さえできれば、個々人は新たな「あたりまえ」を作り出す勇気を持つことができる。守り続けなければならない文化や習慣はあるにしても、すべてのことを昨日と同じに百年一日の如くに続ける集団は、やがて活力を失う。滅び去る場合もある。水平飛行は安全には見えるが、一定高度の飛行には多くの危険が潜んでいる。


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