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zoom RSS 教育のあるべき姿は、自分で自分自身を高めること

<<   作成日時 : 2014/01/24 00:01   >>

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 昨今、ゆとり教育の見直しがなされている。ゆとり教育を10年以上続けた結果、諸外国と比較して、日本の若者の学力が予想外に低下した。カリキュラムにゆとりを持たせて考える力を養う? 人権を尊重して体罰は厳禁? その結果生じたひずみを修復するために、やっとのことで、本気で日本政府も教育とは何かを考える時期に来たようだ。学校の勉強さえしていれば、グローバルな競争に勝てる時代は終焉を迎えたことも理由である。

 日本の教育は、(1)知識偏重の学習である。この教育が度を過ぎると思考力を養う教育が疎かになる。本来であれば、頭脳に知識を集積し、もう一方で、その知識を燃料に新しいアイデアや生き方を生み出して行くべきところであろうが、日本の教育体制では、知識の量を測ることが主となっているので、知識を得たところで教育が終了となる。(2)全ての学科が円満にできるのが優秀な学生。大学入試などではいわゆる「足きり」があり、ある学科が一定の点数を満たさないとその時点で不合格となる。バランスの取れた人材は育つかもしれないが、問題はそのレベルである。低位バランス型では社会に出てから役立たない。バランスは悪いが、一つの学科が飛びぬけて優れている学生は魅力的である。そのような学生がその実力を磨き上げてゆく体制が求められる。

 伸びて行く学生は、学んだことに思考力を加え、自助努力でどんどん前に進んでゆく。興味があり、自分自身で何がわかって何がわからないかが整理でき、わからないことをとことん突き詰めて行こうとする態度。この態度を養っていくのが本当の教育である。教科書に掲載の問題の解き方を暗記する教育とは全く逆方向である。ゆとり教育も本当はこの自分自身で学ぶ教育を目指したもの?? と考えられるのだが、結果的にはうまくいっていない。小手先だけで教育制度を変えてもうまくいかないということである。その原因は、実社会はゆとり教育で育った「考える人」などはまだ求めていなかったということである。日本社会が国際競争に敗れ、あるいは敗れるとの恐怖感を抱いた時に、このゆとり教育の精神が初めて生きてくることになる。ただし、その時には、勉学態度にはゆとりが許されることはない。

 教育には段階があると思う。いわゆる「修破離」である。初学者は教えられることを覚えるのがやっとだが、それを収め、その後は自分なりに考えて試行錯誤し、一芸に秀でるわけである。「離」は大学にたとえれば「ドクター」に相当する。

 結論的には、学校教育にしても自助努力にしても、(1)目標は常に現在持っている実力の120%くらいに設定すること、(2)魚(知識)のみを与えるのではなく、魚の取り方(知恵)を教えること。この努力を続けていると常に考え方が前向きで、自分自身で魚の獲り方を発明するようになる。人生と言う長いレースの中で、教育とは何かの認識の仕方ひとつで、人それぞれの生き方が大きく変わってくるであろうことは想像に難くない。


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