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zoom RSS 兵庫県高砂の工楽松右衛門の家系、時代に生き時代に押し流され

<<   作成日時 : 2014/06/30 00:08   >>

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工楽松右衛門は兵庫県高砂の地が生んだ、発明家にして実業家であり、高砂の地を大いに活気づけた。また、遠くは蝦夷・択捉の地にまで足場を固めた。工楽家は商売で得た金銭の多くを高砂の港湾整備につぎ込んだ。しかし、明治維新とともに、海上輸送から陸上輸送に物流の中心が移り、それとともに商業の中心も港湾都市・高砂から鉄道が通る加古川へと移っていった。これにより、工楽家は没落することになる。

このブログでは、@Wikipediaの記事の引用、A「ひろかずのブログ」からの引用、B工楽松右衛門屋敷に関する引用、C関連する写真の紹介、という形で、完全ではないが、工楽松右衛門およびその家系の一端を伝えたい。時代の移り変わりとは残酷なものである。



工楽 松右衛門(Wikipedia) には次のように記されている。

工楽 松右衛門(くらく まつえもん、寛保3年(1743年) - 文化9年(1812年))は、江戸時代の人物で廻船業者。現在の兵庫県高砂市に生まれ、帆布(松右衛門帆)を発明し、函館にドックを建設し、択捉島に埠頭を築いた。

1743年(寛保3年)、播州高砂(兵庫県高砂市東宮町)の漁師の長男として生れ、幼少から創意工夫が得意であった。帆布(松右衛門帆)などの多くの発明した。松右衛門帆の利益により船持ち船頭になる。
1758年(宝暦8年)、この頃、兵庫に出て佐比絵町にある御影屋という船主のもと船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に智恵を得て、その斡旋で佐比絵町に店を構え、船持船頭として独立。
1785年(天明5年)、従来の破損しやすい脆弱な帆に代わり、木綿を使った厚手大幅物の帆布の織り上げに成功。「松右衛門帆」として全国に普及この「松右衛門帆」の考案により航海術が飛躍的に向上し、結果として北前船の北方領土進出が現実的となった。
1790年(寛政2年)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する。
1791年(寛政3年)、この年の夏、択捉島での埠頭建設竣工。
1802年(享和2年)、松右衛門の功績を賞して幕府から「工楽(工夫を楽しむの意)」の姓を与えられた。
1804年(文化元年)、函館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
1812年(文化9年)、死去。墓所は現在の神戸市兵庫区にある。



工楽松右衛門とその子孫については「ひろかずのブログ」に詳しい。
   http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/cat12635059/
   http://azaleapines.blog.ocn.ne.jp/hirokazu/2013/10/post_74fa.html

「ひろかずのブログ」よりの引用

高砂繁栄の終焉

工楽家が、何代かにわたり新田を築き、波止、湛保(たんぽ)を完成させようとしている間に、時代はガラガラと音を立てながら動いた。

天保四年(1833)、加古川筋に大規模な百姓一揆が起り、高砂町内の有力な商家や米蔵などが襲われた。

嘉永七年(1854)にはロシアの軍艦が大阪湾に侵入、沿岸の各藩は海岸に砲台を築づいた。

当地方でも加古川の中州、向島の突端に姫路藩は砲台を築いた。

討幕の動きも急雲を告げ、文久三年(1864)には姫路藩の木綿専売業務をひき受けていた特権商人が尊嬢派の藩士に暗殺された。

高砂港の築港工事が完成したのは、そのあくる文久四年(1865)であった。

そして、数年ならずして慶応四年(1868)、兵庫港開港、鳥羽・伏見の戦い、明治維新と歴史は続く。

それらは、姫路藩の年貢米や専売商品の独占的中継港としての高砂の終焉を意味した。『近世の高砂(山本徹也著)』(高砂市教育委員会)は、次のよう書く。

「明治元年(1868)一月十七日、姫路藩の高砂米蔵は長州軍の手によって封印されたが、これは、近世高砂の終末をつげる象徴的なできごとだった。

明治新政府によって、株仲間の解散、金本位制の実施、藩債の処分など、やつぎばやに打ち出された改革により、蔵元を中心とする特権商人の没落は、高砂の経済を内部から崩壊させるものであった。

さらに、明治21年(1888)、山陽鉄道の開通が追い打ちをかけた。これにより海上輸送は、一挙に後退した」

東播地域の物資集散の中心が高砂町から加古川町に移った。


工楽家の衰え

初代松右衛門が亡くなった後も、工楽家による高砂湊修築は続いた。

幕末の動乱期、三代にわたって築港事業にたずさわって来た工楽家は、世が明治と代った時、すっかり私財を使いはたしてしまっていたようである。

築港を命じた姫路藩はすでになく、完成した高砂港の価値も鉄道開通によって低下してしまい、副産物として造成された工楽新田は、地租改正時のごたごたの中で、だまし取られたような形で他人名義になってしまった。



加古川 水の新百景

工楽松右衛門屋敷(くらくまつえもんやしき)

概要
「工楽松右衛門屋敷」は、堀川のすぐ近くにある古い屋敷で、加古川を行き来した“高瀬舟”の舟板が壁板に使われています。
加古川舟運は、大正2年(1912)の播州鉄道開設により完全にその姿を消しましたが、同時に“高瀬舟”も次々に解体されていきました。廃材となった高瀬舟を有効的に再利用しようと、その素朴で頑丈な船板はあちこちの家の土蔵の壁板(外張り)に姿を変えたといいます。この屋敷の壁板に使われている板もそうではないかといわれ、それを見ることで、当時の“高瀬舟”の大きさなどがよくわかります。
工楽松右衛門は、帆布製造の始祖として知られる人物で、寛保3年(1743)に高砂市東宮町に生まれました。幼少の頃から改良や発明が好きだった松右衛門は、それまでの脆弱な帆布に改良を加え、木綿を使った厚地大幅物の帆布の織り上げに成功し、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになりました。また、築港技術をにもすぐれていたと言います。高砂神社の境内には、りっぱな銅像が建っています



現時点の工楽松右衛門屋敷

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高砂神社に立つ工楽松右衛門像

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