アルケミストは考えた

アクセスカウンタ

zoom RSS 江戸時代の乳幼児死亡率は庄屋という恵まれた地位においても高かった

<<   作成日時 : 2014/09/28 23:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 4

江戸時代は士農工商といい、農民が2番目の地位に位置づけられてはいたが、その実態は過酷なものであった。一生懸命に米を作るが、その米は口に入らず麦が常食となったり、飢饉となった年には多くの飢死者が出た。農民といえども餓死と隣あわせであった。

江戸時代の農民の生活がどのようなものであったか。米どころである播磨地方(今の兵庫県)であっても、農民の暮らしには厳しいものがあった。その実際の姿を史料に基づき浮かび上がらせてくれているのが「近世播磨の農民像−黍田村庄屋佐七郎の生涯(山田正雄著、1982年)」である。庄屋、小倉佐七郎が残した膨大な記録に基づいている。

佐七郎は16歳にして約50軒の農家よりなる小村(黍田村、きびたむら)の庄屋となった。この村は大河・加古川の西岸に位置するが高台にあるために加古川の水は利用できない。溜池に頼った米作りとなる。黍田村は現在のJR加古川線市場駅のあるところである。下の地図を見てもらえれば、その小ささが見て取れるであろう。

佐七郎の黍田村は小さい。今のJR市場駅から大歳神社までの距離にしても600m弱だ。村の石高(こくだか)は195石とある。米1石は180リットル、約190kgである。江戸時代の初期には米1石を収穫できる田の面積が1反(たん)と決められた。1反は約300坪、1000m2である。佐七郎の持分は42石となっているから、所持田の面積とすれば4町(ちょう)2反となる。10反が1町である。ただし、江戸中期には1反あたりの収穫量が200kg台へと向上したようであるから、この面積計算が正しい保証はない。佐七郎は村の田の約2割を所有していたことになる。

さて、本書は小田しか持たない農民が、大家族を支えられずに困窮する様子を克明に描き出している。そして、私が驚いたのは、多くの乳幼児が死に至るという事実である。経済的に恵まれていると思われる佐七郎家においてもそれは例外ではない。下に示した佐七郎の年表を見ていただければわかるように、佐七郎は長男と8女を儲けたが、そのうち、長男と長女〜6女を幼くして亡くしている。さらに、娶った最初の妻も2年後に、そして待望の孫も幼少時に亡くするという不運に見舞われている。

江戸時代の平均寿命が短いというのは、子供の幼少時での死亡率が高いのがその理由とは言われているが、まさに実感である。平均余命は現在よりは少しは短いがそんなに極端に短くもないように感じられる。佐七郎の祖父が65歳、父が73歳、母が75歳、そして佐七郎が66歳での死亡である。時代とともに寿命がどのように変化してきたかは、こちらのブログにまとめた。

佐七郎は65歳の時、七女(16歳)と八女(13歳)をともなって約半月の日程で伊勢神宮へ参拝している。陸路をたどったのか、高瀬舟で高砂まで出て、そこから海路伊勢へと向かったかは記されていない。だが、お蔭参り(1771年)の例にもあるように、陸路を行ったと考えるのが妥当ではないだろうか。佐七郎の死因は記されていないが、死の前年である。

以上、佐七郎の時代の農民の生活に関して、非常に簡単に書籍より得られた知識のごく一部のみをここに記したが、私としては教えられることが多かった。江戸時代と比較すると現在はなんと幸せな時代か。もし、普通に仕事を得、普通の生活ができているとすれば、その生活は庄屋・佐七郎をはるかに凌ぐ生活水準にあることは間違いがない。




兵庫県小野市市場町の位置
画像


市場(黍田)の拡大図
画像


JR市場駅
画像


佐七郎邸(現在の遠景、GoogleMap)
画像


黍田村(写真の左側)を流れる大河・加古川 佐七郎の時代はここを高瀬舟が上り下りした
画像


佐七郎に関する年表
画像




参考として、

正史忠臣蔵 福島四郎著に、黍田村は一時期赤穂藩の飛び地であり、小倉七右衛門宅に赤穂浪士となる吉田忠左衛門が一次身を寄せたとある。以下、関連する部分を抜粋した。 

赤穂領|黍田《さびた》(|来住《きし》村の内)の|小倉家《おぐらけ》は、元禄時代から明治維新の際まで|庄屋《しようや》を勤め来った旧家で、昭和十二年に他界された小倉亀太郎翁は、著者小学校時代の恩師であるが、その小倉家には、赤穂浅野家第二代の長直公が巡視の際宿泊せられたことがあるのみならず、吉田忠左衛門が寺坂吉右衛門を従えてある期間滞在していた縁故もあり、かたがた赤穂義士とくに吉田と寺坂に対する著者の関心は、幼時より極めて深かった。

|来住《きし》村字|黍田《きぴた》は赤穂領で、そこの名主小倉七右衛門方に、吉田は次男伝内及び寺坂吉右衛門と共にある期間滞在していたこと、小倉家に現存する古文書によって知ることができる。小倉家の先代亀太郎翁は著者が小学校時代の恩師で、同家の古風な庭園は、吉田が滞在中指図して築造したものだと言い伝えられている。

従来歴史家は、赤穂義士といえば、赤穂と江戸と、山科に近い京都や伏見を直に連想するが、加東郡がそれらに譲らぬ潜伏地であったことを、注意する人は少ない。加東郡内の赤穂領黍田村には、当時の名主だった小倉家が今日なお現存し、吉田や寺坂の手紙の外当時の日記なども残っているから、他の村内にも捜査すれば、あるいは貴重な史料の発見があるかも知れない。



          ブログ一覧に戻る        ホームページ「アルケミストの小部屋」に戻る



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
あなたの苗字や名前はどこに多く分布している このサイトが面白い
姓名分布&ランキング(母数2338万人)というサイトが面白い。苗字あるいは姓名を入れると、全国で何人いるか、そしてその分布はどうなっているかを教えてくれる。 ...続きを見る
アルケミストは考えた
2014/11/01 21:32

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
徳川幕府政権下の封建制社会の出来事ではなく、明治から太平洋戦争は移染までこのような社会でした。経済思想とか政治思想とかで語られることが目立つが住民の生活史の切り口で見れば思想などと頭の中で簡単にコネクリ回すのは止めて貰いたくなります。
匿名
2014/09/29 12:23
読み比べてみると同じ時代に対する「切り口」の違いが解るます。

歴史的に見た日本の人口と家族
http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/20061006090.pdf

人生 40 年の世界: 江戸時代の出生と死亡
http://minato.sip21c.org/humeco/anthro2000/kito.pdf
匿名
2014/09/30 08:24
匿名様

江戸時代は人口が驚く程に安定していたのですね。食料不足と流行病などにより、これが当時の日本の国の人口の限界だったかもしれませんね。

歴史的に見た日本の人口と家族 より
「全国の人口はほぼ2,500 万人から2,700 万人の間で推移しており、江戸
時代後期が前期から一転して人口の停滞期であったことがわかる。」

人生 40 年の世界: 江戸時代の出生と死亡 より
「種痘が一般化する幕末以前には子供の多くが数年に一度は襲ってくる痘瘡(天然痘)で死んでいた.麻疹,風疹も子供にとって致命的な病気だった.女性では妊娠期間中および出産時の死亡も多かった.江戸時代のひとびとの死は,現代日本とくらべて,子供,女性で頻繁に起きていた.」
畑啓之
2014/09/30 19:01
江戸次第に人口が安定(増えなかった)していたのは食糧生産量が頭打ちだった故に「間引き」が行われたり女は遊郭で一生を終え子を産むことができなかった(当然一生独身の男も居た)ことを見落としてはいけないと思います。

明治になって藩が無くなり(武士階級の失業)農村の余剰人口(無宿人)や失業武士階級が農地開拓開墾や蝦夷地移住で農地が拡大するに連れ若干は米生産量が増えたが幕藩体制で抑制されていた人口増加の歯止めが無くなり増え続ける人口を南洋やハワイへ出稼ぎ移民でもそして朝鮮台湾併合で新規農地の米生産量を増やしても増え続ける人口を養うのは大正末期が限界でした。富国強兵策で(兵力)人口を増やす政策が人口増加圧力を加速させ社会不安を募らせたが政府は何も有効な対策(農地解放など)を実施することすらできなかった。

大雑把に言ってこれが明治以降太平洋戦争敗戦までの日本近代史です。


匿名
2014/09/30 22:26

コメントする help

ニックネーム
本 文
江戸時代の乳幼児死亡率は庄屋という恵まれた地位においても高かった アルケミストは考えた/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる