現存する最古の民家、兵庫県神戸市の箱木千年家住宅に行ってきた
兵庫県には古い住宅が現存すると、以前のブログで取り上げました。
箱木家住宅(兵庫県) 鎌倉時代(1185-1333)から南北朝時代(1336-1392)
内田家住宅(兵庫県) 江戸時代(1603-1868)中期以前
古井家住宅(兵庫県) 室町時代(1336-1573)後期
横大路家住宅(福岡県) 江戸時代(1603-1868)前期
坂田家住宅(兵庫県) 日本最古級の古民家
昨日はその中のひとつ、箱木千年家住宅に行ってきました。Wikipediaでは次のように解説されています。
箱木家住宅(Wikipedia)
兵庫県神戸市北区山田町衝原(つくはら)にある歴史的建造物。国の重要文化財(1967年6月15日指定)。「箱木千年家」(はこぎせんねんけ/せんねんや)の通称で広く知られる日本最古と推定される民家の一つである。
室町時代建立の主屋(「おもや」)、江戸時代建立の「離れ」(「はなれ」)の2棟が重要文化財に指定され、他に築山、中庭、納屋、土蔵等が遺存する。
「おもや」(主屋)は、最も古い建築で入母屋造茅葺き。屋根が非常に巨大、かつ、軒が極端に低いため遠くから見ると縄文時代~弥生時代の竪穴住居を思わせるような形態である。また、屋根を支えるために壁が多く窓などの開口部が極端に少ない。
大人の入場料は300円。いただいたパンフレットには「箱木家は当山田庄の地侍で、応永(1394~1429)頃には宮座(みやざ)の下頭屋役(しもとうややく)を勤めていたといわれ、この部落の中心的な家柄であったと思われる。」とあります。
呑吐(どんど)ダムの建設(1989年竣工)に伴い、旧位置から70mの位置に移設されました。このブログの一番下に、パンフレットから移設前後の間取りをコピーしていますが、移設前には2つの建家が1つになっていたようです。
箱木千年屋住宅写真集 ダブルクリックで拡大できます
全景
箱木千年家解説
母屋 現存する民家の中で日本最古
母屋の軒先
母屋の内部
母屋の屋根
母屋内部より天井を見上げる
ダム建設に伴う移設前後の間取り(パンフレットより)
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箱木家住宅(兵庫県) 鎌倉時代(1185-1333)から南北朝時代(1336-1392)
内田家住宅(兵庫県) 江戸時代(1603-1868)中期以前
古井家住宅(兵庫県) 室町時代(1336-1573)後期
横大路家住宅(福岡県) 江戸時代(1603-1868)前期
坂田家住宅(兵庫県) 日本最古級の古民家
昨日はその中のひとつ、箱木千年家住宅に行ってきました。Wikipediaでは次のように解説されています。
箱木家住宅(Wikipedia)
兵庫県神戸市北区山田町衝原(つくはら)にある歴史的建造物。国の重要文化財(1967年6月15日指定)。「箱木千年家」(はこぎせんねんけ/せんねんや)の通称で広く知られる日本最古と推定される民家の一つである。
室町時代建立の主屋(「おもや」)、江戸時代建立の「離れ」(「はなれ」)の2棟が重要文化財に指定され、他に築山、中庭、納屋、土蔵等が遺存する。
「おもや」(主屋)は、最も古い建築で入母屋造茅葺き。屋根が非常に巨大、かつ、軒が極端に低いため遠くから見ると縄文時代~弥生時代の竪穴住居を思わせるような形態である。また、屋根を支えるために壁が多く窓などの開口部が極端に少ない。
大人の入場料は300円。いただいたパンフレットには「箱木家は当山田庄の地侍で、応永(1394~1429)頃には宮座(みやざ)の下頭屋役(しもとうややく)を勤めていたといわれ、この部落の中心的な家柄であったと思われる。」とあります。
呑吐(どんど)ダムの建設(1989年竣工)に伴い、旧位置から70mの位置に移設されました。このブログの一番下に、パンフレットから移設前後の間取りをコピーしていますが、移設前には2つの建家が1つになっていたようです。
箱木千年屋住宅写真集 ダブルクリックで拡大できます
全景
箱木千年家解説
母屋 現存する民家の中で日本最古
母屋の軒先
母屋の内部
母屋の屋根
母屋内部より天井を見上げる
ダム建設に伴う移設前後の間取り(パンフレットより)
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この記事へのコメント
茅葺き屋根の角度はほぼこれくらいだと思います。白川郷の屋根もこんな感じです。
移築時に増設された古い部分を切り離して復元したとあります。図は間口11.39m、奥行8.42mとなっています。建坪は29坪となります。内部の写真も加えました。
箱木千年屋の屋根内部の巨大な空間は天井が無い事と相まって囲炉裏の無いのが普通のこの地方では冬の寒さは厳しいでしょう。
復元後の(建造時の)狭い建坪の母屋に巨大な高い屋根は不必要に不釣合いではないでしょうか?つまり高い巨大な屋根にはその理由が無ければならないと思います。
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移築後の板の間の「おもて」に囲炉裏が復元?されているのは、何か根拠があるのですか?
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離れを増築し母屋と一体化した時に、屋根を造り変えて大きく高くしたのではないかと思います。その大きくなった屋根をそのまま復元母屋に再現しただけではないかと思います。従って、離れ増築以前の母屋のみの屋根の大きさも復元するべきだったと思います。
そして、移築前・平面図の「おくざしき」「なかのま」には天井板が貼ってあったと思います。
匿名様の方が多くの情報をお持ちのようです。パンフレットによりますと、「解体してみると、梁や桁の古材がかなりよく残っていて」とありますが、そこから上部に関しての記述はありません。
重要文化財箱木家住宅(千年家)保存修理工事報告書 (1979年) - – 古書, 1979/1 があるようですが、図書館(神戸)に行く必要がありそうです。
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★ このような巨大な屋根が現存することから縄文時代の竪穴式住居の屋根が復元?されたというのが通説です。
軒が低い事及び壁の開口部が極めて少なく且つ小さい事が古代の住宅の名残だと思います。
屋根の傾斜が急な事即ち見方を変えれば巨大な屋根は神社や寺院の屋根が巨大且つ急峻であるのと同様にその建物や持ち主の権威や地位を誇示する目的で造られたと思います。
従って白川郷の合奏造とは外見が似ているがその目的や機能が異なると思います。
室町時代には西日本でも囲炉裏があったことは知りませんでした。
創建当時の箱木家住宅の間取りは北朝鮮の家屋には屋内に竈があるのと似ているので興味深いです。
情報をありがとうございます。
昔の気候はわかりませんが、このあたりは神戸や三木とは違い、雪が降っていることがあります。数度は気温が低いのではと思っています。
北方由来らしい竪穴式住居(内部の土間で火を起こしていた)はある時期に日本全土で突然に出現しました。
それに対して南方の住居では屋外に造った竈(かまど)で料理するのが普通でした。