年中行事の「墓参り」に思う、「機械的になってはいないか?」

春、秋の彼岸と盆の墓参りは日本人の年中行事である。その地に住み続け、墓地が住居の近くにあること、そして各家が近くの寺の檀家であることを前提に、この制度が連綿と日本人に受け継がれてきたものと考えられる。

だが昨今は若い人たちが田舎から都会へと移り、生家や墓地と物理的な距離ができてしまっているケースが多くなっている。「ちょっと墓参り」は時代の現状に合わなくなってきている。

田舎から都会に飛び出したからといっても、転勤があるのが普通だ。来年はどこに住んでいるのか? 「神のみぞ知る」自分では決められない不可抗力的側面がある。墓そのものを現在住んでいる場所の近くに移すこともまた難しい。田舎に行けば行くほど、ご先祖様の墓石の数が多くなる。このことがまた墓石の移動を難しくなる。

ご先祖様ときいても顏も見たこともないから親しみもわかない。どんな人であったかの記録でもあればまだよいのだが、祖父母までは何とかなるにしても曾祖父母となるとはるか圏外となる。そんなこんなで「エイヤー」と意を決し、墓石の処分にかかっているのが今のご時世だろう。最近よくニュースになる。

「永代供養」という話もよく聞くが、おそらくこの前提は墓石がひとつ(総墓)の場合についての話だろう?ご先祖様全部を伴って寺を移動することなどは難しいかもしれない。墓石を一つにまとめるか。それも一つの解決策だろう。

長男長女時代の大問題。両家の墓を誰がみるか? みられるうちはよいが、物理的に限界がある。田舎の墓地掃除から始まってやっと墓参りにたどり着く、そんなことを考えたいつもの2日間であった。



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この記事へのコメント

匿名
2015年03月23日 07:30
墓に骨壺が入りきらないのも困る。

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