姫路城の内堀と外堀(船場川)を南北に橋渡ししている野里商店街には多くの江戸のたたずまいが

姫路は先の大戦で二度の空襲を受け、姫路城の南部から東部にかけては大きな被害を受けました。このあたりには古い家はそんなに多くは残っていません。それに対して、姫路城の北東部に位置し、中堀から外濠にかけて南北につながる野里商店街は、江戸時代の古い家々が残り、当時の雰囲気を今に伝えています。

この商店街を南から北に歩きました。約1.4kmです。その写真を掲載します。


江戸時代の姫路城周辺図(野里商店街はさらに北へと続く)
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姫路空襲(Wikipediaより抜粋)

姫路空襲(ひめじくうしゅう)は、1945年6月22日と7月3日深夜から7月4日未明にかけて兵庫県姫路市が受けた2度の空襲のこと。

6月22日の姫路空襲

1945年6月22日9時50分ごろ、B-29爆撃機約60機が飛来し、播但線京口駅西にあった川西航空機姫路製作所を中心に約1時間爆撃を続けた。爆撃の目的地である製作所は全壊したほか、周辺の民家や道路、上下水道なども甚大な被害を受けた。製作所にいた徴用や学徒動員、社員など多くの従業員や周辺住民を含めた人的被害は、死者341人、被災者10220人。


姫路城(Wikipediaより抜粋)

太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。

1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発であったことなどにより、城郭建築の焼失は免れた。

姫路城所在地の姫路市本町68番地は、高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73haの面積を持ち、単独の番地としては(皇居のある)千代田区千代田1番地の約150haに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第10連隊が配置されていた。姫路空襲でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った。1980年代以降、この一帯の整備および再開発事業が行われ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。


江戸時代の家々の一部です。

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お夏清十郎で有名な慶雲寺

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日吉神社

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明珍火箸本舗

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(参考)明珍家 第52代当主明珍宗理 生業の強さを実感させる家系(2008年11月16日)


広域地図
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拡大地図
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写真集

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この記事へのコメント

匿名
2016年05月08日 07:43
寫眞集1と写真集3は同じ写真デス。
2016年05月08日 08:30
匿名様

ありがとうございました。
差し替えました。

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