アルケミストは考えた

アクセスカウンタ

zoom RSS 姫路城は天守閣や城郭以外にもお堀の配置が面白い だがその情報は意外と少ない

<<   作成日時 : 2016/05/09 00:36   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 1 / コメント 4

画像


                    東側から眺望する姫路城
画像


姫路城の天守閣は白く美しく、荘厳で多くの人の心を引き付けます。日本人のみならず非常にたくさんの外国の方もその姿に魅せられているようです。天守閣を取り巻く石垣や、その石垣に設けられた「門」もまたその石垣の姿が勇壮であり、多くの人の心を引き付けます。ネット検索でも多くの情報を得ることができますし、現存する「門」の前には必ず説明書きがあります。

姫路城の門跡
画像


一方、お堀に関してはその情報が限られています。下のこの写真は江戸時代のお堀と町筋を示したものですが、やはり町筋の説明が主となっています。

                   ダブルクリックすると拡大できる
画像



さて、本題のお堀ですが、城には内堀、中堀、そして外堀あるというのが通り相場です。姫路城はどうなっているかと見てみたのが下の図です(番号は説明のため私が付けたものです)。昔の姫路城は確かに3つの堀に囲まれています。それも面白いことに、見方によっては姫路城から反時計回りに渦を巻くように、内堀、中堀、そして外堀とつながっています。天守閣の東側@より反時計回りに一周強まわり、Aで中堀と出会います。中堀は反時計回りにBCDEAとつながっています。なお、姫路城の説明では「堀」には「濠」の字が充てられることがあります。

外堀は西側は船場川がその役割を果たします。Jより流れ込み中堀と平行に進みFに至ります。Bの位置で中堀とは離れます。EからBの位置では中堀と外堀は「千姫の小径」で隔てられています。この写真は北側から写したもので、左が中堀、右が外堀です。

                      千姫の小径
画像



そして現在は、そのお堀の一部が埋め立てられてしまっています。とくに、姫路城南側に位置した中堀は埋め立てられて国道二号線の東行きに(図中の番号BからC)、そして現在のJR山陽本線北側にあった外堀(Fから姫路駅付近まで)は埋め立てられて生活道路へと変化しています。また、姫路駅から竹の門近くIまでも当時の面影は残していないと考えられます。


関連する記事を集めてみました。

中堀に関しては姫路市の「中堀埋立事情」に記されています。それは次の文より始まっています。

「姫路城の縄張りは3重の堀が螺旋状にめぐる形状となっています。そのうち中堀は、市街地に接する南の部分については大正から昭和初期にかけて徐々に埋め立てられ、現在の国道2号線になってしまいました。明治末から大正初期に堀の埋立てを積極的に行った姫路市長の堀音吉は「堀埋吉」とあだ名が付けられたといいますから、堀の埋立て工事が姫路市民にとって強い印象を与えるできごとだったと考えられます。都市近代化の象徴的な工事は、同時にこれまでの姫路の歴史を否定するかのように城郭施設を破壊し旧来の武家地と町人地の境界を払拭することになったこととも無関係ではないでしょう。」

国道2号線沿いには埋め立てを記念する石碑が建てられています。

画像



外堀は、いつどのように埋め立てられたかは定かではないようです。神戸新聞には次の文より始まる記事がありました。

神戸新聞NEXT 2014年9月17日

姫路城下の全容浮かぶ 石垣で囲い、入り口に巨大な橋

「姫路城外縁部の発掘調査で見つかった備前門橋の遺構(兵庫県姫路市博労町)と、外堀の石垣(同市神屋町)。外堀は、明治時代以降に埋め立てが進み、実態解明は進んでいない。西国街道の旅人らが行き交う巨大な備前門橋、外縁まで堅固に造られた外堀の石垣など、姫路城の全容が浮かび上がってきた。」


さらに、姫路市史(昭和63年、第14巻、姫路城)を確認しましたが、江戸時代の絵図は複数掲載されているのですが、お堀の変遷についてはわずかの情報しか得ることはできませんでした。

    1925年 総社門から内京口門まで中堀を埋め立て
    1927年 総社門以東(以西?)の中堀を埋め立て
     なお、上の石碑では昭和7年(1932年)中堀の450メートル埋め立てとなっています。

    外堀の埋め立てに関しては記載が見当たりませんでした。

昔の姫路城のお堀
画像


現在の姫路城のお堀
画像




          ブログ一覧に戻る        ホームページ「アルケミストの小部屋」に戻る


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(1件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
姫路城のお堀散歩とそのまとめ 補足として南流する船場川と外濠川 その間を通る飾磨街道
ゴールデンウイークの連休を利用して、姫路城の内堀、中堀、外堀を実際に歩いて回ってみました。その風景は一番下に示したリンク集より見ることができます。 ...続きを見る
アルケミストは考えた
2016/05/13 05:30

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
姫路城上流の播但線砥堀駅辺りから市川の分流が姫路城の小高い丘を掠めて流れているのを堀に利用して築城したのでしょうか?

地図で見ると城の周囲には細い川筋が何本も通っているので秀吉の頃は一帯は湿地とまでは行かないにしても川原のような場所だったのかもしれません。

城の周囲の堀の他に何本もの排水路を掘って干拓開墾しているかもしれませんね。
匿名
2016/05/09 15:24
匿名様

船場川(Wikipedia)からの引用です。簡単ではありますが。

古代には市川の本流であったと言われ、当時は現在の市川流路が支流だったとされる。市川上流からの土砂堆積により、流路を幾度か変えてきた。

姫路へ入った池田輝政は1601年(慶長6年)、姫路城の本格築城に加え、市川を現在の流路に近づけ本流化するなどの河川改修にも着手し、旧本流の船場川も併せて改修した。これは水運や流域の灌漑のみならず、船場川流路を姫路城の防禦にも活用しようとする巧みなもので、現在船場川が一部で濠に沿っているのもこのためである。船場川はこの頃、妹背川または三和川と呼ばれていた。

1617年(元和3年)、池田光政に代わって姫路に封じられた本多忠政は飾磨津(現在の姫路港)まで4kmの間に舟運を計画。河川名もこの折に船場川と改められた。
アルケミスト
2016/05/09 18:26
1600年頃の海岸線は現在の山陽電鉄線路沿い(から少し海側)辺りでしょうか?
匿名
2016/05/09 20:37
匿名様

ネット上にあまり情報はないようです。
飾磨という町は開運で栄えましたから、おそらくはおっしゃる通りだと思います。姫路市史にはこのあたりがしっかりと記されているようです(私ははまだ確認していません)。
アルケミスト
2016/05/11 00:49

コメントする help

ニックネーム
本 文
姫路城は天守閣や城郭以外にもお堀の配置が面白い だがその情報は意外と少ない アルケミストは考えた/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる