今から2000年前の⽇本⼈はどのような住居に住んでいたか  ヨーロッパでは

私が住んでいる兵庫県加古川市の東隣に播磨町があり、ここに大中遺跡があります。かつては、ここに250軒ほどの住居があったものと推察されています。

播磨町のホームページより
大中遺跡は、弥生時代後期(約1900年前)から古墳時代初頭(邪馬台国 卑弥呼と同時期)の代表的な遺跡で、長さ500m、幅180mで、約70,000平方メートルの広さがあります。
これまでに全体の20%の面積を調査し、73軒の竪穴住居跡が見つかっています。見つかった住居跡の数から考えると、遺跡内には少なくとも250軒くらいの住居が建てられていたようです。当時、貴重品だった中国製の鏡(内行花文鏡片)が出土しているので、播磨では有力なムラでした。

三内丸山遺跡(青森)がよく知られています。
https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/
 三内丸山遺跡は、今から約5900年前~4200年前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。

この2例を見る限り、三内丸山の青森5900年前から播磨の兵庫2000年前まで、日本人の住む一般住居の形には大きな変化がなかったようです。ただし、現代人の想像による復元家屋ですので、多少は割り引いて考える必要はあります。

一方、西洋においては次ページに示すよう、オーストリアでの竪穴住居もありますが、ポーランドでの発展形も見られます。
書籍「西洋住居史 石の文化と木の文化 後藤久(2005)」より

ハルシュタット文化(Wikipedia)
中央ヨーロッパにおいて青銅器時代後期(紀元前12世紀以降)の骨壺墓地文化から発展し、鉄器時代初期(紀元前8世紀から紀元前6世紀)にかけて主流となった文化。後に中央ヨーロッパのほとんどはラ・テーヌ文化に移行した。

書籍では図25は次のように述べられている。
 ポーランドのビスクーピン湖村(紀元前550~前400年頃)は、木柵に囲まれた楕円形の中に杭上住居(湖上住居)がある7000平方メートル近い大規模なものであった。囲いの中には無数の杭の上に床を造り、南面した100戸以上の丸太の家が規則正しく立ち並び、その1戸は8メートル×9メートル程度で前室と主室の2部屋で構成されている。




ヨーロッパでは、場所により、また時代により、住居の在り方の進歩は不均等であったようです。それに対して、日本の変化は全ページに見られるように、非常にゆっくりとしたものであったと感じられます。これは、当時(といっても非常に長期間ですが)の日本が平和で過ごしやすく、自ら変化する必要がなかったためではないでしょうか。

コロナに揺れる、変化せざるを得なくなっている今の日本と比較するのも、ある意味で趣味が悪いかもしれませんが、興味深い時代であったことは間違いがないでしょう。





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http://www.alchemist.jp/Blog/200725.pdf

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