1年前の今日  葬儀に見る、個人の「自由」と「社会性」の間にあるモノとは何か

1年前の今日  2019年7月26日


一昔前、と言ってもほんの10年くらい前までは、会社の仲間の親御さんがなくなった場合には、その社員が所属する部署はもちろん、地の職場にも声をかけて香典を集め、たとえ北海道や九州であっても課長が葬儀場までそれを持参し、会社としての哀悼の気持ちを表したものである。勿論、会社の社長や重役からは弔電が送られた。

しかし、この習慣は突如として変化した。社内メールで知らされる親族の死亡欄には必ずと言ってよいほどに「家族葬ですので、葬儀への参列は遠慮いたします」との文言が加わるようになった。たとえ、葬儀場でしっかりとした葬儀を行う場合でも、である。

この変化はいったい何を意味しているのであろうか。この変化の速い時代に、上司が葬儀などにかまけている暇はないということなのか。そして、その会社の思いを忖度して、そのように会社に届け出なければならないという心に受ける重圧ためなのか。

社会一般の常識とはこのようなものである。人がしているから同じようにし、人がしていないことは私もしない。これが日本の常識である。「皆が」と言う言葉はマジックワードである。皆がそうしているからそうする。これが日本の常識で、その常識も突如として変化する。

昔は村八分と言う言葉があった。村の中で不始末をしでかし、村の皆とのお付き合いが禁止となったとしても、火事と葬式、すなわち残りの二部の付き合いは残されていた。葬儀に出席し、人として亡くなった方にお別れを告げる。人の道である。

本日、私はあるところで最近の葬儀事情を聴いた。それによると、従来通りの葬儀を執り行うのは三分の一、家族のみで葬儀を執り行うのは三分の一、そして残る三分の一は直接に葬儀場での火葬に臨む、とのことであった。この話を聞いて、村八分が遠い昔に感じられた。

最近は共同体に属さなくても生きていけるし、人との付き合いが煩わしいという人も多くなった。突然にあの人が亡くなったと聞き、仰天することとなる。人は一人で生まれ、そして一人で死んでいく。そんな人として当たり前と言えることを実際にやって見せる時代が来た。しかし人間と言う言葉に代表されるように、人は人と人との密接で複雑な関係性の中に生きているのである。人間関係が希薄になった日本社会、互いに協調できなくなった隣人同士、日本社会はいったいどこに向かって進んでいるのだろう。



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