学位考 博士はそれにふさわしい能力? それとも、オリジナリティ?に与えられるもの?

博士論文は、その人が博士にふさわしい能力を持っていると認定して与えられるものか、それとも、その人の生み出したオリジナリティに対して与えられるものが、あるいは、その両方か?

わたしはその両方であると思っている。STAP細胞でのケースでは、すでに博士号は持っていたが、論文の根幹部分に過去の関係のない論文画像が使いまわされ、能力とオリジナリティがともに失われた。盗用(使いまわし)する行為そのものは能力と人間性を否定するものであるから、博士としてふさわしくないことになる。早稲田大学の授与した博士論文それ自体にも同様のことが散見され、授与された博士号も取り消しの危機にある(猶予期間は本年10月まで)。

さて、種々の領域で博士号(博士の学位)が授与される。理学、工学、医学や農学などにおいては、そこに新しい発見があり、オリジナリティが認められなくては博士号が授与されることはない。20年以上前の私の知っているところでは、大学によりそれぞれ博士号の授与条件が異なり、ある大学では日本語の論文1報の投稿を義務付け、それをドクター論文に変えるところもあれば、英文での論文7報以上の投稿を義務付け、さらにそれらをまとめて英文でのドクター論文とし、その博士論文でもって博士にふさわしいかを審査する大学もある。

審査は一般に、主となる教授と、そこに副査の教授が1~2名加わり公聴会が開かれる。厳しい質問に耐え抜いた博士候補者に博士号が与えられるという仕組みである。この公聴会は、オリジナリティが博士候補者本人から出たものであるかの確認をすることに主眼を置いている。また、英文論文を候補者本人が投稿したかを確認するために、英作文の能力を確認する大学もある。

時代は変わった。いまや二十数年前と比較すると博士課程の定員は約4倍となった。理系学部であっても文科系学部であっても、この多くの博士のタマゴたちがオリジナリティを発揮しなければならない。これらの博士候補者が取り組むほどそんなに多く研究の種は転がっているだろうか? 理系の博士候補がオリジナリティと思っているものは、どこかの書籍にはその概念が記載されている場合が多いに違いない。文系の博士候補については、ことさらに新しい発見はないと考えられるので、ひたすら多くの文献を読み下し、それを頭の中で反芻し、自分の言葉でそれを論文としてまとめ上げることが重要となる。きっとそうだ。

理想を言えば、理系、文系を問わず、いままではこのように考えられていたが、こう考えると世の中がうまく説明できるし、世の役にも立つとういうことである。これは私だけの理想かもしれない。そして、この理想に向かって進む気概を持つことが、博士号を与えられる条件であると私は思っている。

博士号には問題もある。同じ博士号であっても大学間での博士の重みの違いは歴然としている。これは、学士、修士の持つ実力が大学間で大きな開きがあるのと同様である。博士号といっても○○大学△△博士と名乗るわけではないので、このあたりも含め見直していくことが、日本の博士の質を向上させることにつながるものと思う。


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