東京からみた地方 住人から見た地域 これを活性化するのに先人「河合寸翁」の知恵は役立つか

一昨日(5月23日)日本経済新聞夕刊の一面、「明日への話題・地方創生を考える」の冒頭部分である。

「日本経済の真の復活の為には地方創生が待ったなしと言われる。同感である。しかし、現状の取り組みはまだまだ迫力不足ではないだろうか。既存の枠組みから外れた大胆な発想に基づく、大掛かりな仕掛けやプロジェクトを掘り起こす必要がある。(つづく)」


昨年は地方創生の議論で地方が盛り上がった。地方創生か地域創生かという非常にベーシックな議論から始まり、各市町村は地域活性化のためのアンケートを住民に求めたりもした。地方は東京から見た位置づけであり、地域は住民からの視点である。また、アンケートは東京主導で進められた全国的な流れである。アンケートのためのアンケート。一応の結果集計はなされたが、それが市民生活に活かされることはなかったと認識している。予算獲得のためのお祭り騒ぎの終わりである。

今年に入ってからは、ニュースなどで地方創生と報じられることはあっても、身近で地方創生という言葉を聞く機会はめっきり少なくなった。私も含めて、地方に住んでいる住民が本当に地方創生を望んでいるのか、ということが重要だ。住人の多くが必要だと強く願っていれば、そのことはアンケート結果に表れるはずであるが、アンケートの設問次第で得られる答えは大きく振れる。

私の住んでいる兵庫県加古川市には南北問題があると私は思っている。面積で市面積の半分を占める南部は工業地帯、商業地区、そしてベッドタウンであり市人口の9割が居住する。一方、残りの半分の面積を占める北部は田園地帯であり、過疎地であり、市人口の1割が居住する。交通の便も決していいとは言えない。この環境の違う南と北に同じ設問のアンケートを採って得られてくる答えは、当然ながら市南部の意見を色濃く反映するものである。

東京からみて地方創生とは、地方(地域)の特徴を活かして地方を活性化することと理解している。ここで問題となるのが、東京の考える地方の単位である。当然のことながら東京は地方を市町村単位で考えている。したがって、アンケートも市町村単位となる。だが、一つの市町村内部にも、東京と地方に匹敵するほどの環境のバラツキがある。たとえば先ほどの加古川市の南北問題だ。

住民の要望を聞き取る一番確実な方法は、住民にフェイッス・トゥ・フェイスで聞き取り調査することであるが、そんなことは行われた形跡がない。聞き取りをするとあまりにも多くの要望事項が噴出し、収拾がつかなくなることがその理由のひとつと私は考えている。市議会だけでも答弁に四苦八苦しているのに、その上、多くの要望を抱え込んでしまっては、行政運営に支障が出るとの考えだろう。

地方は東京からの補助金のみをあてにするわけにはいかない。地域経済をどうするのか。そのために地方の特徴をどう活かすのか。この議論が真剣になされなければ、地方創生には成功しないだろう。地方を知り尽くしたリーダーのもと、地方創生チームを立ち上げ、理詰めの議論をすることが重要である。


江戸時代に地域活性化を成功させた河合寸翁は、地域の特性を把握し、非常に粘り強く人々を説得し、リーダーを育て、地域活性化に成功した。リーダーシップのある人間が、人生をかけた大きな志をもって一つのことにあたる。グローバリゼーションの今の時代、河合寸翁が成し得たこのようなことが、地域という限られた空間において可能なのだろうか。まず、その可能性から考え、篩に残った可能性のあることから取り組む、その篩を振るリーダーがまずは求められる。



姫路城天守閣の東横・姫路神社にある河合寸翁像
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河合道臣(河合寸翁、Wikipedia)  抜粋

明和4年5月24日(1767年6月20日) ~ 天保12年6月24日(1841年8月10日)

河合 道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)は、江戸時代後期の姫路藩家老。一般には晩年の号の寸翁(すんのう)で知られる。酒井氏4代に50年余にわたって仕え、姫路藩の財政再建に貢献した。

江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。

道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。

昭和32年(1957年)には姫路市商工人の奉賛によって、姫山公園にある姫路神社境内に道臣を祀る寸翁神社が設置された。鳥居の右に道臣の胸像がある。

関連作品
財政再建の名家老 河合道臣 姫路城凍って寒からず』(著:寺林峻)


(付録)加古川市で開かれる加古川レガッタのポスター ここにも漕盛(そうせい)の文字はあるが
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